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陸奥国 会津郡 古町組 鴇巣(たのうす)村 大日本地誌大系第31巻 125コマ目 府城の西南に当り行程19里。 家数17軒、東西2町12間・南北3町3間。 東は檜枝岐川に近く西は山に倚り南北田圃(たんぼ)なり。 東2町山口村に界ひ檜枝岐川を限りとす。 西1里12町和泉田組和泉田村の山に界ふ。 南15町20間大橋村の界に至る。その村は未(南南西)に当り28町。 北17町和泉田組小野島村の界に至る。その村まで25町。 また丑寅(北東)の方2町宮床村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで4町。 山川 檜枝岐川 村東2町にあり。 大橋村の境内より来り、北に流るる35町、小野島村の界に入る。 関梁 橋 村東2町、隣村の通路檜枝岐川に架す。 長20間。 丸木橋なり。 神社 熊野宮 祭神 稲荷神? 相殿 八龍神 建立 不明 村南1町余にあり。 鳥居あり。界村渡部信濃が司なり。 若宮八幡宮 祭神 若宮八幡? 天神 鎮座 不明 村南2町10間にあり。 鳥居あり。渡部信濃これを司る。 伊勢宮 祭神 伊勢宮? 鎮座 不明 村南50間余にあり。 鳥居あり。修験明光院司る。 寺院 地蔵寺 村西にあり。 草創の年代を伝えず。 村民の持なり。 Google Map熊野神社 奥会津三十三観音二十九番札所松譽堂入口 松譽堂(参考:会津の三十三観音めぐり) お堂
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陸奥国 会津郡 弥五島(やごしま)組 大日本地誌大系第31巻 84コマ目 この地府城の南に当り本郡の東端にあり。 東は白川領岩瀬郡に界ひ、西は楢原・小出両組に隣り、南は松川組に接し、北は小出組に連なる。 東西2里計(東は岩瀬郡湯本村の山界五輪峯より、西は小出組大沢村の山界に至る)。 南北1里18町計(南は松川組水門村の山界より、北は小出組桑原村の山界に至る)。 村落多くは鶴沼川の傍ひ皆山間にあり。 土地禾(のぎ)麦に宜く水田少し。 又多く煙草を種て鬻(ひさ)ぎ出し、葛粉を製し蚕を養て生産の資とす。 この組の諸村湯原郷に属し共に長江荘と称す。 弥五島村小名:牧野、和田、西浦 端村:大倉 白岩村小名:中井、上村、向白岩(むかいしらいわ) 端村:雑根(ざうね) 田代村 芦原村小名:根岸 枝松村
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陸奥国 会津郡 高久組 界沢(さかひざは)村 大日本地誌大系第31巻 39コマ目 会津・河沼両郡の界にあるゆえ名けりという。 府城の西北に当り行程1里31町。 家数50軒、東西1町25間・南北1町55間。 四方田圃(たんぼ)にて西は黒川に近し。 東7町10間中森台村の界に至る。その村まで10町40間余。 西2町高久村の界に至る。その村は申(西南西)に当り11町30間。 南8町15間下吉田村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り7町余。 北4町河沼郡笈川組米丸村の界に至る。その村まで10町20間。 また未(南南西)の方9町10間横沼村の界に至る。その村まで14町30間余。 戌亥(北西)の方5町5間笈川組熊川村の界に至る。その村まで7町20間。 もと村の戌亥(北西)の方40間余に西舘(にしたて)という端村あり。今は廃せり。 山川 黒川 村西1町にあり。 上吉田村の境内より来り、北に流るること25町余高久村の界に入る。 水利 清水堰 上吉田村の方より来り田地に注ぎ米丸村の方に注ぐ。 神社 熊野宮 祭神 熊野宮? 相殿 伊勢宮 山王神 鎮座 不明 村より亥(北北西)の方2町にあり。 鳥居幣殿拝殿あり。高久村黒沢縫殿之助が司なり。 寺院 耕真寺 村中にあり。 曹洞宗高雲山と號す。開基詳ならず。 天正3年(1575年)獨峯という僧中興し、天寧村天寧寺の7世正元を請して開山とせり。 即天寧寺松山なり。 本尊如意輪観音客殿に安ず。 稲荷神社 境内にあり。 古蹟 館跡2 一は村中にあり。 東西20間・南北27間、 土手高5尺・根置3間、 北に堀形残れり。幅3間。 昔葦名直盛の臣金屋尾張某という者住せりという。 一は村より戌亥(北西)の方40間にあり。 東西20間・南北30間。 西館という。 何の頃にか金屋某居りしという。 今田畝を開く。 堀の趾僅(わず)かに遺れり。 東雲寺跡 村北にあり。 元禄4年(1691年)本郡南青木組大豆田村に移れり。 壇 村より未(南南西)の方7町にあり。 高9尺・周21間。 古堂という。 往古堂ありし所といい伝う。 下橋(くたりはし) 村北2町にある字なり。 昔橋ありし時、源義経馬より下りて過しとてこの名ありとぞ。 今は橋架すべき川もなく名のみ遺れり。 Google Map熊野神社 耕真寺 永和の暮らしと歴史(会津若松市)より界沢の記述を引用 会津郡と河沼郡との境にある沢があることで付けられました。東高久遺跡は、平安時代の1200年前、会津郡下の「多具郷」の跡です。慶長16年の会津大地震で集落が崩壊し、慶長18年(1613)に高久と堺沢(現在は界沢)に村は分かれました。また、もともとある集落内には戦国時代に松本一族がすみ、後に金屋尾張守(かなやおわりのかみ)と名乗り住んだ館跡があります。金屋氏は、慶長6年(1601)上杉景勝に付いて山形県へ移っています。集落の北側、北界沢には、越後時代の上杉景勝・直江兼続にゆかりのある雲洞庵がが建てられましたが、寺は、東雲寺に名を変えて若松城下と市内大戸町上三寄大豆田へ寺が分かれて移され、城下の寺は戊辰戦争で焼失しています。また、上杉氏の米沢移封に伴い米沢にも移りました。 思わぬ所で多具郷の話が出てきました。 この多具郷は和名類聚抄(国立国会図書館:陸奥国の記述参照。69コマ目)に出てくる平安時代に会津郡にあった郷です。発掘記録によると元富士通の工場があった場所に存在していたようです(現高久工業団地)。
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陸奥国 会津郡 小出組 小野(おの)村 大日本地誌大系第31巻 82コマ目 府城の南に当り行程6里18町。 家数6軒、東西14間・南北52間。 小野嶽の半腹より少し下に住す。村名これに因るとぞ。 東4町弥五島組田代村に界ひ大川を限りとす。 西1里楢原組大内村の界に至る。その村まで1里8町余。 南7町湯原村の界に至る。その村まで16町。 北9町30間小出村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り18町。 山川 小野嶽 村の戌亥(北西)に当り、頂まで大抵1里計。 古木茂りて登ることを得ず。 大川(おほかわ) 村南4町にあり。 湯原村の境内より来り、東に流れ北に転じ、2町計を経て鶴沼川に合し鶴沼川となる。 広50間余。 鶴沼川 田代村の境内より来り、村東にて大川を得、北に流るること10町小出村の界に入る。 小野沢(おのさわ) 村西7町計にあり。 大内村の山中より源を発し東に流れ小出村の境内に至り大川に入る。 境内を経ること1里10町。 広3間計。 神社 熊野宮 祭神 熊野宮? 相殿 山神 幸神 鎮座 不明 村の戌亥(北西)の方20間計にあり。 鳥居あり。大沢村星大和が司なり。 寺院 観音堂 村より戌亥(北西)の方にあり。 石階を経て登る。 堂、3間2尺1寸四面。 拝宇、5間半に2間半。 建立の年代詳ならざれども榱椽の制、古樸にして佳麗の堂宇なり。 また漆塗の古佛器あり。旱魃の時洗えば雨降るとぞ。 佛像は往古より深く秘して見ることを許さず。 村民の持なり。 墳墓 古墓2 一は観音堂の後ろにあり。 高4尺・幅2尺。 自然石にて表に梵篆1を鎸(ほ)れり。 土人相伝て朝日長者の墓という。 一は村東菜圃(さいほ)の中にあり。 大きさ前に同じ。文字なし。 長者の妻の墓といい伝う。 今に小野嶽の頂に長者屋敷の字あり(本郡の条下を併せ見るべし)。 Google Map小野地区 小野岳 小野観音堂 会津線旧線 大川ダム水没区間(山さ行がねが) 小野嶽・長者屋敷について 小野岳の朝日長者伝説…悲しい夕日姫の子は母猿に育てられた(みちのく民話伝承) 甦る小野観音仁王門(PDF)(南会津のうりんニュース第62号) 一部抜粋 その昔、允恭天皇(西暦374年)の頃、奥会津小野嶽(標高1,383m)の山頂に朝日長者と娘の夕日姫が住んでいたところ、有宇(ありう)という貴族が館の前を通りかかり一夜の宿を求めました。有宇はしばらく館に逗留していましたが、その間に夕日姫と相思相愛の仲となり、一子をもうけるようになりました。 やがて有宇はどうしても一度都へ行かねばならなくなり、秘蔵の観音像を長者に託して旅立ちましたが、旅の途中で熱病にかかり死んでしまい、それを伝え聞いた夕日姫もまた、同じ熱病にかかり死んでしまいました。 朝日長者は残された赤子にやる乳もなく、赤子を抱いて困り果て、思わず有宇の残していった観音像に手を合わせました。 そうしたある日、一人の女中が長者を尋ねて、赤子に乳を飲ませました。女中はそのまま一年ほど逗留し、やがて赤子が乳離れできるようになると、「私は以前貴方に助けられた小野嶽に住む母猿です。このたびはその時の恩返しで参りました。私は山の仲間の所へ帰ります。」といって朝日長者のもとを去っていきました。 朝日長者はその母猿に育てられた子に猿丸太夫と名付け、屋敷の敷地にお堂を建て、そこに有宇のかたみの観音像を奉ったとのことです。 なお、朝日長者と猿丸大夫の話は日光の方が有名だったりします。 柳田国男氏が伝承をまとめたもの出版しています。 →猿丸大夫(Wikipedia)。 →柳田国男先生著作集. 第10冊 (神を助けた話)(まだ未公開)
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陸奥国 会津郡 河島組 大日本地誌大系第31巻 105コマ目 この地府城の南に当り本郡の南にあり。 下野国塩屋郡に跨れり。 東北は共に田島組に隣り、西は熨斗戸組に界ひ、南は下野国都賀郡に交わる。 東西9里22町(東は田島組栗生沢村の山界より、西は熨斗戸組岩下村の界に至る)。 南北10里20町(南は都賀郡西川村の界より、北は田島組新町村の界に至る)。 本郡に属する村6ヶ村あり。共に関本郷と称す。 皆山間に住し荒貝川に傍(そ)ふ。 多く下野街道にて駄馬を追て生計をなる。 山林多く田地少なし。蕎麦、大小豆、及び煙草を種(うえ)ゆ。 また、勝栗(かちぐり)を製し材木を伐て府下に鬻(ひさ)ぎ出す。 この組凡12ヶ村あり(6ヶ村は外編に出す)。 河島村 中荒井村端村:油燈(ゆとう)、小桂(こがつら) 藤生村端村:上野、上小塩、下小塩 関本村 糸沢村端村:今和泉、古内、羽塩、宇治山、馬場原(廃) 滝原村
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陸奥国 会津郡 小出組 桑原(くわはら)村 大日本地誌大系第31巻 83コマ目 府城の南に当り行程5里18町。 家数18軒、東西45間・南北45間。 山麓に住し西は鶴沼川に臨み南北は田圃(たんぼ)なり。 この村宇都宮街道駅所にて、本郡南青木組香塩村より2里8町ここ継ぎ、ここより13町52間小出村駅に継ぐ。 村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。 東2里本郡南青木組闇川村の山に界ふ。 西3町沼尾村に界ひ鶴沼川を限りとす。その村まで8町。 南3町小出村に界ひ鶴沼川と限りとす。その村は未(南南西)に当り13町50間余。 北12町船子村の界に至る。その村まで18町。 山川 大戸嶽(おおとかたけ) 村東20町にあり(本郡の条下に詳なり)。 鶴沼川 村西3町計にあり。 田代村の境内より来り、東に流るること30町、西に折れ北に転じ25町計を経て船子村の界に入る。 関梁 船渡場 村南、宇都宮街道鶴沼川の渡しなり。 (小出村の条下を併せ見るべし) 神社 伊勢宮 祭神 伊勢宮? 鎮座 不明 村北にあり。 鳥居あり。小出村五十嵐越後が司なり。 Google Map桑原地区 大戸岳 神明神社? 子安観音堂 芦ノ牧温泉南駅 会津線旧線 大川ダム水没区間(山さ行がねが) 余談。 旧桑原地区は大川ダム完成後若郷湖となり旧国鉄会津線の桑原駅も水の底に沈みました。現在の芦ノ牧温泉南駅は移転後の桑原駅です。駅前に旧桑原駅を忍ばせる駅名板(ストリートビュー)が設置されています。
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陸奥国 会津郡 大塩組 塩沢(しほさは)村 大日本地誌大系第31巻 145コマ目 村中に塩井あり。村名の起こりし処という。 府城の西に当り行程18里。 家数53軒、東西3町・南北2町、数居す。 北は山に倚り南は只見川に傍ふ。東西に少しく田圃(たんぼ)あり。 東22町大沼郡本組滝沢村に界ひ畳子沢を限とす。その村は寅(東北東)に当り1里24町。 西16町蒲生村の界に至る。その村は未申(南西)に当り1里。 南1町十島村に界ひ只見川を限とす。その村は巳(南南東)に当り8町。 北2里蒲生村の山に界ふ。 山川 笠倉山(かさくらやま) 村北25町にあり。 麓より頂まで3町余。 只見川(たたみかわ) 村南1町にあり。 蒲生村の境内より来り、辰(東南東)の方に流るること1里余滝沢村の界に入る。 広1町余。 塩沢川(しほさはかわ) 源を笠倉山に発し、山間を屈折して東南に流るること30町計、村中を過ぎ只見川に注ぐ。 広7間計。 鱒(ます)・鰥(やまへ)・岩魚(いはな)を産す。 畳子沢(たたこさわ) 村東22町にあり。 倉山という処より流れ出て、13町計東西に流れ只見川に入る。 この沢を会津・大沼2郡の界とす。 塩井 村中、塩沢川の東岸巌穴(がんけつ)の間にあり。 周6尺余、深1丈。 傍に塩焼小屋6軒あり。 村民常に農隙(のうげき)を以て井水を汲み煮て塩となし、他村まで鬻(ひさ)ぎ出す。 塩の味ひ軽く色白し。 土人は空海の護摩を修せしに因って湧出すという。その時のものなりとて、塩ほりつくしと唱て長1尺計の黒石5枚今に塩釜神社に蔵む。 関梁 橋2 一は村中にあり。長8間・幅7尺。塩沢川に架す。 一は村東1町隣村の通路にあり。小塩沢という渓流に架す。長6間、丸木橋なり。 神社 塩釜神社 祭神 塩釜神? 相殿 権現 鎮座 不明 村の北東にあり。 鳥居拝殿あり。 神職 五十嵐備前 何の頃かに土佐忠久という者神職となり、三世にして今の備前忠広に至ると云う。 寺院 醫王寺 村北山足にあり。 真言宗なり。村中に塩井あるに因て塩光山と號すと。 開基の年代詳ならず。 弘治2年(1556年)大沼郡本組横田村本城寺より宥意という沙門来て中興す。因て彼寺に隷せしが後改て紀州高野山遍照院の末寺となる。 本尊薬師客殿に安ず。 旧家 孫之丞 矢澤河内藤綱が七台の孫なり。 藤綱は山内氏の世臣にして常に一隊を統べ、入ては密謀に預かり出ては攻戦に加はり天正18年(1590年)松坂峠の合戦に敵の伏兵俄に後を絶ち、横田日向同出羽同兵庫同周防同安藝などいえる者立ところに戦死す。藤綱もその党15人と一番に進て命を殞し、氏勝をして死地を免れしめたりという。 子孫農民となり本村に住す。 Google Map塩沢地区 笠倉山 只子沢(畳子沢)会津郡と大沼郡の境界にある沢。 塩井? 塩竃神社 真言宗智山派 医王寺(醫王寺) 河井継之助記念館長岡藩の武士。戊辰戦争時長岡藩を率いるも敗戦、八十里越を通り会津藩へと逃れる。後にこの村へ訪れたあと病死する。
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陸奥国 会津郡 高野(こうや)組 大日本地誌大系第31巻 108コマ目 この地府城の南に当り本郡の中程にあり。 東は田島組に界ひ、西は古町組に隣り駒戸峠の頂を限りとし、南は河島組に接し、北は大沼郡野尻組に連なる。 東西3里10町計(東は田島組永田村の界より、西は古町組入小屋村の界駒戸峠に至る)。 南北2里20町余(南は河島組藤生村の山界より、北は野尻組大芦村の山界に至る)。 村落多くは檜沢村に傍(そ)ひ南北に山を擁し平衍の地多く田圃(たんぼ)少なからず。 また養水の便よし。故に里民専ら耕耘を事とし余業を假らずして糧食に足りる。 ただ高野・針生両村のみ高山の麓にあり。 寒暑稍(やや)遅速あれども伊南・伊北の諸組に比すれば霜雪遅く降て早く消ゆ。 山中にシメジを生ず味美なり。 この組の諸村針生郷に属し長江荘と称す 高野村小名:馬頭(ばとう)、暮坪(くれつぼ)、岩下(いはのした)、立屋沢(たちやざは)、中村 端村:浅符(あさふ) 下塩沢村小名:田中、根岸、宮下(みやのした) 上塩沢村小名:原 福米沢村小名:下村 金井沢村端村:帯沢新田 大豆渡村 黒沢新田村 針生村木地小屋:黒森
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陸奥国 会津郡 楢原組 中倉(なかくら)村 大日本地誌大系第31巻 100コマ目 府城の南に当り行程6里。 家数14軒、東西35間・南北1町30間、山中に住す。 四方に田圃(たんぼ)あり。 東3間・南3町、共に桜山村の界に至る。その村は南に当り4町。 西は数峯連なり桑取火村の山に続き界域を分ちがたし。 北14町30間大内村の界に至る。その村まで1里4町。 村中に下野街道あり。 神社 赤城神社 祭神 赤城神? 鎮座 不明 村西30間にあり。 鳥居あり。水抜村星河内が司なり。 Google Map中倉地区 中倉一里塚跡 赤城神社? 三日月神社 - 元赤城神社か? 神社? - 地理院地図より 神社? - 地理院地図より。茂峨沢の上流 八幡のケヤキ 八幡のケヤキの案内板より引用 このケヤキには、次のような故事がある。「天喜三年(1055年)人皇70代後冷泉天皇の御代、八幡太郎義家が、陸奥の豪族安倍貞任を討伐の折、険路で難渋して、中倉村の司(つかさ)二宮太郎兵衛宅に休憩した。二宮氏は手厚く歓待をして、大沼郡尾岐村に至る間道を教えたため、賊軍不意を討たれて敗北した。八幡太郎義家は大いに喜び、謝礼のしるしに庭先にケヤキを植えた。」と伝えられる。 会津郡南青木組御山村の蝦夷塚の条にもありますが、源義家が会津の地で蝦夷と戦ったとの記録は無いようです。
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陸奥国 会津郡 原組 大日本地誌大系第31巻 19コマ目 この地府城の東北に当たり、本郡の東北端にあり。 東は湖水を限とし西は南青木組に界ひ、南は本郡福良組(福良組は安積郡に隷すれどもその他本郡に跨る)諸村の山に連なり、北は河沼郡代田組に接し、辰巳(南東)の方は安積郡に続き福良組に並ぶ。 東西1里余(東は湖水の岸より、西は南青木組湯本村の山界に至る)。 南北4里余(南は福良組諸村の山界より、北は代田組強清水新田村の界に至る)。 三面に山を負い東に湖水を擁し、その間は谷地(やち)とて水溜り水草多く生ずる処なり。 土地瘠(やせ)て田圃(たんぼ)多からず。 諸組に較(くらべ)れば地勢もっとも高く、風烈くして寒気強く盛夏といえども朝夕は裌衣(あわせごろも)を服せり。分て原村は雪深くして、年に因っては人家を埋め昼夜となく燈を用いる事あり。 農隙(のうげき)には「クク」と云う草を採り、蓑(みの)を製して府下及び他邦に鬻(ひさ)出し、或は薪を採り筵(むしろ)を織る者多し。 また東田面・崎川・中田等の村々は湖浜(こひん)に臨み網罟(もうこ)の利あり。 田代・高坂(原の端村)は山中にある故、炭を焼き生計の資とす。 皆郷名を失う。共に門田荘と称す。 昔は瀧澤組の内なりしが寛文七年(1667年)割て原組とせり。 原村小名:吉平(よしがたひら) 端村:高坂、田代 西田面村小名:原治郎屋敷 上馬渡村 下馬渡村 赤井村小名:下窪新田、廻戸新田(まはとしんでん) 端村:桂沢新田 原新田村 篠山村 中田村端村:鵜浦(うのうら)、松崎 崎川村 東田面村端村:堰場(せきば) 経沢村端村:石田、大経沢(おほへさわ)(廃) 参考 湊町のたから湊町ガイドマップ(PDF)